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パリからヨーロッパ各国の王宮まで、若き調香師が一世を風靡・・・・・・ クレベール大通りとエトワール広場(当時はまだこのあたりも田舎でした!)の一角にあった小さな工場。 ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランは、ここで「サントゥール デ シャン(田園の香り) Santeurs des champs」「エスプリ ドゥ フルール (花の精) Esprit de Fleurs」など、香水の原型になる作品を誕生させました。 1830年、早くもゲランは、女性一人ひとりの魅力に合わせた、しかもある特定の機会に使うことを想定したトワレを創ろうとしていました。一晩中、ときめきをもたらすような新しい香水はできないものか、とゲランは考えたのです。 文豪オノレ ドゥ バルザックからは「セザール ビロトー Cesar Birotteau」の執筆前に特製トワレの注文を受けました。小粋なファッション雑誌「シルフィード」の特別号に香りをつけたこともあります。 この頃からゲランのカタログには、香水以外にも、化粧水や乳液などのスキンケア製品が登場するようになりました。その中には、お肌をしっとりさせる「フルール ダマンデ ア ラ スルターン(スルタン風はたん杏の花)Fleurs d;Amandes a la Sultane」、お肌をさらに美しくする「パート ロワイヤル(王のパック)Pate Royal」、お肌を白くする「アルコーラ ドゥ コーコーブル (きゅうりのアルコール液) Alcoolat de Concombres」なども・・・・・・。 この若き調香師の名声は高まるばかりでした。パリもまた変わろうとしていました。ナポレオン三世がオスマン男爵にパリの整備計画を命じた頃、ゲランは新しいブティックをオープンしました。そこはドゥ ラ ペ 通りの15番地。まだほとんど舗装されていなかった通りでしたが、ここはまもなく粋で洗練されたファッションの発信基地となるのです。 同時に工場もコローブへと移転。さらに二人の息子であるエメ(Aime)とガルリエル(Gabriel)の助力を得てピエール=ルランソワ=パスカルの名声はさらに広く知れ渡り、賞賛を集めるようになりました。 今日でも、ナポレオン家の紋章をあらわす蜜蜂模様が一面に彫られたボトルで発売されている「オーデコロン インペリアル(皇室のコロン) Eau de Cologne Imperiale」。この傑作がウジェニ皇后を喜ばせ、その創作者であったピエール=フランソワ=パスカルには「国王陛下御用達調香師 His Majesty's Official Perfumer」という称号が授けられました。この認定によってゲラン一家の歴史に最初の発展の波が訪れます。 ゲランは続々と、「パルファム イムペリアル(皇帝の香り Perfume Imperiale)」「パルファム ドゥ フランス(フランスの香り)Parfume de France」「ブーケ ドゥ リンペラトリス(皇后の花束)Bouquet de l'Imperatice」ブーケ ナポレオン(ナポレオンの花束)Bourquet de Napoleon」「デリス ドュ フランス(王子の喜び)Delice du Prince」を世に送り出しました。 ピエール=フランソワ=パスカルは、国際化の先駆者でもあります。彼は、間もなくヨーロッパ中の皇室御用達調香師になります。ビクトリア女王、スペインのイザベル女王、そして忘れることのできないオーストリア皇后エリザベート、さらには中央ヨーロッパやセント ペテルブルグの王室のために香水を創作し、「ル ブーケ ドゥ フルステンブルグ (フルステンブルグの花束):Le Bouquet de Furstenberg」「オーデ コロン リュス(ロシアのコロン)L'Eau de Cologne Russe」「ヴォワラ プークワ ジャメ ロジーヌ(私がロジーヌを愛した理由)Voila pourquoi j'aimais Rosine」を誕生させました。 |